梅は風騒の友

 梅の木がわが国に入ったのは今から一三00年も前だという。まだ寒さの去らないうち,
百花に先がけて咲くことと,気品のあるところに,多くの人から好まれてきた理由があり「萬葉集」
巻十には「雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞たち梅は散りつつ」があり,「古今集」春上には
「春の夜の闇はあやなし梅の花色こそ見えぬ香やは隠るる」とある。

 水戸では徳川斉昭が梅の木を好んだこともあって,家々にも梅が植えられたし,偕楽園,
弘道館の梅林つくりも行われた。斉昭は「種梅記」を著している。

「予少より梅を愛し,庭に数十株を植う」これがその書き出しで,原文は漢文で書かれている。
斉昭は江戸小石川邸に梅を植えた。そして,天保四年(一八三三)始めて水戸へ来られ,そこで
梅園の少ないのを嘆き,小石川邸の梅の実をとって,水戸へ運び,「司園の史をしてこれを
偕楽園及び近郊の隙地に種(う)しむ」とある。これが水戸を梅で有名にしたきっかけである。
その後、天保十一年(一八四0)再び斉昭は水戸へ,「種梅記」はつづく。

「種うる所のもの鬱然として林を成し,華を開き実を結ぶ。たまたま弘道館新に成るに会す。
乃ち数千株を其の側に植う」。これが現在の弘道館公園の梅園である。「又国中の士民をして
家ごとに各々数株を植えしむ。…… 華は即ち雪を冒し春に先立ちて,風騒の友となり,実は
即ち酸を含み渇を止めて,軍旅の用となる」。梅は野性が強く白色一重の花はとくに強健で詩
情をそそるもので,梅を眺めながら詩作も行われた。さらに梅の実の食糧としての用も述べて
いる。梅には「こうめ」「ぶんごうめ」などがあり,色は白・紅・うす赤,八重咲もある。

 ところで,この梅園が今では観梅を中心に人々の憩いの場として,観梅デーには数万人が
集まるようになった。梅の下での宴,斉昭はこれまでになると考えていたであろうか。

 冬ごもり 春べも花は咲かねども
 知る人ぞ知る 園の梅が咲く

 初めにも述べたが梅が文献に現れたのは紀元700年ごろというから,かなり古い。山野に
自生するものはなく,中国からの渡来したものである。偕楽園は天保十三年(一八四二)7月
の開園で,最初は三の日と八の日に庭の拝見が許されていた。観梅のはじまりは明治三十三年
(一九00)二月で,それより以前の明治三十年にはすでに観梅列車が運行されていた。

 葦原の瑞穂の国の外までも
 にはひ伝へよ梅の華園

 この歌は斉昭が弘道館に梅を植えた歌で,斉昭の梅に対する関心はことのほかであった。

 しろたへに匂へる梅の花
 心の色は神ぞしるらん

 大正7年、山村暮鳥,野口雨情,横瀬夜雨らが好文亭で木星会を開き,その時,暮鳥は次の
詩を詠んだ。

 こんな老木になっても
 春だけはわすれないんだ
 御覧よ まあ、紅梅だよ

 正岡子規は明治二十二年四月五日,水戸に遊び「崖急に梅ことごとく斜めなり」(句碑あり)
 烈公の冠正し梅の花」と詠んだ。

 大木惇夫詞の「水戸二高校歌」は「水戸にはみつる梅が香の誇りもゆかしわが学び舎 ここに
つどひてつちかひて 実りも堅くつつましく……」と歌い出す。梅の季節にはゆっくりと梅見を
楽しみたいものだ。(今瀬)